描くことを学ぶということ──厳しさ・基礎・時間・そして向き合い方

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「厳しいこと」を言えなくなる現実

以前、ある絵画教室のクロッキー会に参加したときのこと。
そこで生徒さんがこんなふうに話しているのを耳にしました。

「先生は親切なんだけど、厳しいことってあんまり言ってくれないのよね」

そのとき私はふと思ったのです。
きっと先生も、最初は色々と言っていたんじゃないかな、と。

でも、おそらく──
指摘したことで生徒さんが辞めてしまったり、
ちょっと嫌な顔をされたり。
そんなことが何度もあったのではないでしょうか。

そうしていつしか、良いところだけを見て、
やさしく見守るスタンスになっていったのかもしれません。

私が通っているテンペラ講座の先生も、
基本的にデッサンの崩れは指摘しませんし、
「デッサンをやったほうがいいですよ」とも、あえて言いません。

でもそれは、“優しさ”というより、
痛みを知っている人の選択”なのだと思います。

私自身も、過去に何度も経験があります。
「デッサンをやったほうがいい」と伝えたことで、
そのまま講座を辞められてしまったこと。

こちらとしては、もっと良くなってほしくて言ったつもりでも、
受け取る側には「否定」や「責め」に聞こえてしまうことがあるんですよね。

絵を教えるって、思っている以上に繊細な仕事です。
本当は、「言うべきこと」ほど、いちばん言いづらい。

それでも私は、描く人自身がふと「気づいてみよう」と思えるような、
そんな小さなきっかけを届けられたら──と、いつも願っています。


デッサンは、どこまで必要なのか?

「デッサンはどこまで必要か?」
これは、とても難しい問いです。

私の考えとしては──
たとえば、模様や抽象、ゆるいタッチの作品など、
基礎力がそれほど求められない画風であれば、無理にやらなくてもよいと思っています。

でも、多くの人が描きたいと感じるのは、
「少しは具象的なニュアンスのある絵」ではないでしょうか。
完全な写実でなくても、もののかたちが感じられる絵。

そして、それを描くにはやはり「お約束」があります。
光と陰、立体と奥行き、比率や構造。
それらを掴むには、ある程度の練習が不可欠です。

とはいえ、「どこまで練習すればいいか」という明確なラインもありません。
描きたい絵のスタイルによって、“必要な基礎”は人それぞれです。

だからこそ、“自分が描けた”と思えるところが、ひとまずのゴール
そこから先は、また自分で広げていく道になります。


人物を描くことは、特に時間がかかる

まったくの初心者であっても、最初からデッサンの感覚が鋭い人もいれば、
長く描いていても形が安定しない人もいます。

けれど、これは優劣ではなくて、それぞれの「得意な方向」が違うだけのこと。

ただ、はっきり言えるのは──
人物を描くというのは、デッサンの中でもとても難しいテーマだということです。

顔、手、身体のバランスや微妙な傾き。
ほんの少しのズレが、印象に大きく影響します。

そして「誰が見ても美しい」と思えるような人物画を描けるようになるには、
どんなに良い先生に添削してもらえたとしても、
少なくとも数年はかかるのが現実です。

それでも、描いていればきっと見えてくるものがある。
私はそう信じています。


加速する「結果を急ぐ人」と「積み重ねる人」

もともと、何かを学ぶときには
「コツコツ修練する派」と「結果を急ぐ派」がいるものだと思います。

でも近年は、特にこの二極化が加速していると感じます。

「タイパ(タイムパフォーマンス)」という言葉に象徴されるように、
短時間で成果を求める傾向が強まり、
仕事でも趣味でも「早く上手くなりたい」と願う人が増えました。

その一方で、地道に積み重ねる人は、誰にも見せず、声を上げることもなく、
ただ静かに、時間をかけて絵と向き合っています。

どちらが正しいということではありません。
でも──
絵を描くという行為は、「答えのない時間」に耐えることでもある。

そしてその時間の中にこそ、
“本当の深み”が育っていくのだと思います。


おわりに:積み重ねた人にしか見えない景色がある

描いていても、すぐに上手くならない。
自分だけが成長していないように思える。

そんな焦りに駆られることは、誰にでもあります。

でも、焦らずに筆をとり続けた人だけが、
ある日ふと、「これが自分の絵かもしれない」と思える瞬間に出会える。

それは評価された結果ではなく、
自分の中に積み重なったものが、静かに芽を出した感覚です。

だから、今日もうまく描けなくても大丈夫。
その手で描いた時間は、ちゃんとあなたの中に残っていきます。

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